春霞に往かむ
花の下にて春死なむと西行は詠める。
巡回路から少し外れようと角を曲がった先に、八重桜が咲いていた。 その木のもとに笠をかぶった男がいた。 男は桜の枝を仰いでいた。 沖田はちょっと迷ってから、足取りを緩めず少し離れて桜を仰いだ。 葡萄色に、薄紅梅と空五倍子色の花が咲く袷を身に纏っている。裏地の紺鼠色がきれいなコントラストを描いて、渋い梅の花のようだ。 粋だが、女物とも見紛う色合いだ。 「犬と見たら俺も早く木に登ればよかったみてぇだな」 いや、お前はよく見ると猿か?頭がきんいろにひかってる。 男の言葉が解せなくて、沖田は首をかしげる。男は可笑しそうにちらっと口の端を歪めた。 「小話がある。戸隠権現に参拝しようとした西行法師が社のあたりまでやってくると、童子が桜の木の下で遊んでいた。しかし法師の姿を見るとあっという間に木に登っていってしまった。法師はそれを見て、さるちごと見るよりはやく木にのぼる、とからかった。童子は、犬のようなる法師来れば、と返した。法師は恥じ入り、その桜のところから道を引き返した。西行戻しと謂われる逸話だ」 「さるごちとか犬がうなるとか、何なんですかい」 「さるちごと見るよりはやく木にのぼる、だ。猿のような子だと思ったらなるほど木にのぼるのが早い、とからかったんだ。子どもは野良犬のような襤褸をまとった法師がやってきたからだ、犬と猿は仲が悪いものだから、と返した。法師は知恵のまわる子どもがいる、流石は戸隠権現の膝元に住むだけある、と思って、このうえ参拝で何か失敗しないように道を戻ったんだ」 俺も犬と見たら木に登るべきだった。 「折角おあつらえむきに桜の木があるのに。しまったことをした」 しかし犬の風体をしてお前さんは猿だなと男は云った。 饒舌な男だ、と沖田は思った。しゃべりは流暢で、土地の訛りがない。 江戸の者だろうか。それにしてはやけに風情を解する。 江戸っ子は風情を解するよりも、粋を好む。 「あんたァ、江戸のひとじゃあないでしょう」 男は笠のつばを下ろすようにつまんで持ち、ななめに沖田をかえりみた。 「いや。江戸者さ。このところご無沙汰だったが、桜を追って北上したら、江戸まで来ちまった」 「そりゃ、もの好きで」 粋ではあるが江戸の粋ではない。派手、というには、男の挙動には毒があった。しなやかな肉食動物のようだと思う。 「たしかに俺ァ犬ですがね。犬のお巡りさんでさ。久々の江戸で何かお困りなら、番屋にでも連れてってやりますぜ」 「結構だ。生憎とひとと会う約束があるんでね」 そりゃよかったと云いながら、沖田はこめかみのあたりの警戒信号に何かがひっかかるのを感じていた。この男は、どこか、空恐ろしいものを抱え込んでいる。 手を出したら噛みつかれるぞ、と信号は告げる。 男は背を見せたまま、再度桜を仰いだ。 「江戸ももう葉桜と八重桜ばかりになっちまった。今度の桜は、また来年だなァ」 「追っかけないんで?」 「充分追いかけた。もとより江戸までと決めていたんでな」 「へェ。それはどうして」 男が振り返る。初めて笠を持ち上げ、あかく歪む口唇を見せる。 「江戸に、用があったのさ」 笠の陰から、白い包帯に包まれた顔の半分がのぞいた。 沖田はつうと目を細めた。 「さっきの話ですがねィ」 「うん?」 「俺ァ無学なもんで、西行つったらあの歌ひとつしか知らねェんでさ」 花の下にて春死なむっていう。あれだけ。 「なんでそんなにみんなして、桜の木の下で死にたがるでしょうねェ。死体は根元に埋まってやがるし、満開の下じゃ気が狂う。しかも鬼が棲むとあっちゃあ、ご勘弁願いてェ木じゃねぇのかと。少なくとも俺は勘弁して貰いてぇ」 男はくすりと笑った。 「そんなことか。簡単さ。それは」 桜が美しいからさ。 男の持つ剣呑な穏やかさがゆるりと研ぎ澄まされて、沖田はぞくりと背筋が震えるのがわかった。 男がゆっくりと振り返る。 「なかなかどうして、罪な花じゃあねェかい?そうは思わねェか、犬ッころ」 「そうですねィ。罪ついでに、あんたを来年のその花の肥やしにしてやりやしょうか。俺の罪も花にしょってもらやいい」 「手前の罪も手前でしょえない、飼い主が飼い主なら犬も犬だな。生憎と、俺を斬っても罪にゃなるめーよ。俺がお前を斬ったなら罪になるというのにな。まったく、国や体制というのは、とかく信用がならねぇ」 「そりゃあ激しく同意してやりてぇところですねィ」 それこそ生憎のことだが、沖田は体制側で男は反体制側だ。 それが決まりごとってもんで、と沖田は云った。 男は軽く肩をすくめた。
「かわいいツラして鬼子だねェ、お前」 「なんの。桜の木の下に呆っと突ッ立ってるあんたのほうこそ、鬼じゃないですかい」
鬼のような男と青年が対峙する。 しかし彼らがその言葉を聴いて、ふと思い出す顔は。 青年は鬼とあだ名される上司で、男は鬼神と称される知己だったりする。 青年は口元だけで笑った。 男は沖田の思考を察したように口をひらく。
「鬼は、お前の上司のほうだったか。鬼の副長さんが」 「ええ。泣いた赤鬼級に、どうしようもねぇ無粋で馬鹿な鬼ですがねィ」 「そうかい。俺の知ってる鬼も、赤くはねぇが、どうしようもねぇ程の無粋で馬鹿だったな」 「へェ。どんな、やつですかィ」 (あぁ、一言でいえば) 「神のような、馬鹿だった」 男の言葉に、青年はからからと笑った。 「そりゃァいいや」 うちは精々が鬼のような馬鹿、どまりだ。 馬鹿だ。しかし。 「お前も相当の馬鹿だぜ」 殺し合いの場で相手と笑ってるんだから。 「あんたもですぜ」 その談笑している相手の喉笛を掻っ切るつもりなんだから。 でもまぁ、お前の、あんたの、いちばん馬鹿なところは、俺を斬ろうっていうところだ。
鍔鳴りが引き絞るような研ぎ澄ますような音をたてた。 対峙する男の目が猫のように細まったのを見た。
一歩を踏み出すか呼吸をとめる刹那だった。
男がふっと肩を落として、ゆるく息を吐いた。 「一番隊隊長、沖田殿」 呼ばれた沖田がきょとんとする間に、男は、ふ、と笑う。 「残念だ。お迎えが来たようだな」
振りかえったところをばっさりやられないかな、と思いながら、しかし明確にこちらにやってくる足音が聞こえて沖田は振り返った。 振り返るとほとんど同じタイミングで、角から見慣れた黒服があらわれる。 「総悟、んなとこで何やってんだ。さぼりも大概にしろ」 先程まいてきた巡回の連れの土方だった。土方は無造作に沖田のもとまで歩いてくると、少しうえを見るふうに顔を仰向かせた。 「桜か?さんざん見たろ、この間の花見で」 沖田は慌てて背後を振り返る。そこには既に男の姿はなかった。男の今しがたまで立っていた場所には、ただはらはらと八重桜の花弁が落ちているだけで、沖田は思わず狐につままれたようなこころ持ちになる。 土方が立ちすくむ沖田を訝しげにのぞきこんだ。 「なんだ、誰かいたのか?」 「いえ…」 舞い落ちて髪にかかる花弁をひとつ手に取り、沖田は答えた。 「野良犬が一匹、逃げてっただけでさァ」
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「ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比」西行法師
西行を慕って、「西へ行く 人を慕うて 東行く 我が心をば 神や知るらむ」と高杉晋作氏は詠ったそうです。
この話自体が、西行戻しといわれる各地に伝わる逸話をひな形にした、長野は戸隠の伝説「西行桜」のパロディです。
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